日常のなんでもないようなこと

なんでもない日常の生活の中で、感じたことを綴ります。

大学生の仲間意識と自己形成について

 

大学という、ある種特別な世界で生活していて疑問に思うことがあります。

それは、仲間がいることが最高に楽しいことなんだ!幸せなんだ!と思ってる人が多くいるということです。

たしかに、それはそうなのですが、多くを仲間によって充実感を得ていたり、それをステータスにしていたりしているのを異常に強く感じます。

あと、承認欲求の塊みたいな人が多くいます…

まあ、かわいいなと思って接すれば何ら問題はないのですが、数年後には社会に出る人がそんなでいいのか!?と思ってしまうことがあるのです。

 

固苦しい内容です。何となく書きました。↓


 仲間への依存の高さは、割と多くの大学生に見られる。
 その傾向は学年が若いほど強く見ることができるのだが、そこには、学生が抱いている不安や寂しさ、承認欲求が理由で、仲間といることで安心感を得ていたり、仲間がいることが自分のステータスになったりしているように感じられる。人間の成長段階でその傾向がみられるということは、何らおかしいことでもないし、間違ったことでもないので、その点に関しては問題ないのであるが、最近ふと、思ったことがあった。
 それは、仲間と多く接することで本人に対して良い影響があるのかということである。もちろん、人との関わりが少ない人とそうでない人であれば、当然人との関わりが多い人のほうが、人間生活を豊かに送れるのは言うまでもないし、社会性の発達には良いだろう。しかし、大学生にとっての仲間との関わりというのは比較的限定的で、大学内もしくはバイト先で知り合った気の合う者同士の付き合いのことを指す。友だちが欲しいとは言え、所詮限られたコミュニティの中での付き合いである。
 最近、社会性と道徳性について研究している中で、人間の道徳観や認知構造等について様々考えるようになった。研究を深めているうちに、人間の基本的な道徳観や言動等善悪の判断を付けることのできるものは、たくさんの人との関わりによって身につけるため、その上で人と関わりを持つというのは重要である。しかし、それよりも高次元的な人間の道徳観や認知構造、価値判断について人が得るとき、それは周囲の人との関わりから教えられるものではないと思う。もちろん、自分にはない経験をした人と関わったり、話しを聞いたりすることは、自分の知見を広げる上で大切なことであるが、それはあくまでもその人の一部であって、それだけがその人ではない。言葉にしていない、言葉にできない、振る舞いにも表れていないようなことの方がきっとその人を作っているものは多いだろう。
したがって、多くの大学生のような人といることを常に求めるような人間の場合、今までその人の言動等表現として表されているものに多く触れて人間関係を形成しているので、それで築かれた人間関係は今までの言動から判断して気の合うものだと判断し、それで形成されたその関係性は自分についても仲間についても言動に重きを置いているので、その人の内面についてどの程度考えられているのだろうか。
 つまり私が言いたいのは、もともとは、不安や寂しさをなくすために仲間を求め、生活の中の多くの時間を仲間という“見える”形で穴埋めすることで、“楽しい”大学生活を送ろうとするというこの心理構造は、はたして、自分の価値判断や認知構造を形成することにつながっているのかということである。そして、自分の価値や認知構造を形成するということは、自分を知るということでもある。
 人は、考えが深くなればなるほど言葉に表すのが難しくなり、普通の人付き合いの中でそのようなことについて口に出すことはしない。しかし、言葉に出さないがそれを自分の価値として持っている人は、自分自身についてよく知っている人である。このような人は、言動だけで人を判断せず、見えないところも含めてその人間を理解しようとするし、それも含めてその人と関わることだと知っている。
 このような深い価値観を持つためには、自分自身との自問自答が必要であると考える。人と付き合うことで、自分について見えてくるものは自分の一部であって、それを全てにしてはいけない。むしろ、時間をかけて自分について自分に問いかけ自分にとって大切なものは何か、価値は何かなど、人間としての価値観を持つために深く考える活動こそが、どんな社会でも強く生きていける芯からブレない人間につながるのではないだろうか。